画廊 藤藪

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               2023年 11月

 御挨拶 

 

67歳から日本画を始めました。

ささやかな展示です。

 

 先月末 高須明先生から 「絵が見たい。ぜひ個展を」という御言葉をいただきましたので並べてみました。以前からの 自分用のメモWEBページです。

 

 

どうぞ御笑覧ください。

 

 

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アトリエ / 縁側 閑話 美の世界と私

 

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絹本に取り組む

 

 50年ほど前 岡崎高校美術部在籍。

 顧問は 洋画 新制作展の成瀬光男先生。

 美術部に入ろうという気はあまりなかったのですが4月の部活動の説明期間のある日、入ろうと思っていた弓道部の説明会は4時半から、それまでの時間、4時からの美術部の説明会をちょっと見学。美術教室というのが校舎の東端、出入口がひとつだけ。入口を背に大きなイーゼルが並び 先輩たちの一群。はいると奥へ、途中の退場はむつかしい空気。そもそも、名古屋市内の旭、明和にしなかったのは、身体虚弱の私に担任の先生が「近くの高校へ行って身体を鍛えなさい。(私は越境入学生で中学通学に片道1時間半かかっていた)弓道なんかどうだ。会社の重役とか・・」担任の岩切先生は至誠の師でありまして、100%信頼。話を聞いた瞬間、岡崎高校弓道部進学を決めました。

 美術部 春のスケッチ 乙川川畔 

 土手で スケッチブックに 遠くの橋と川原。成瀬先生がやってきて そばに立ちました。風が心地よい。先生のズボンが腕に触れ フエルトの柔らかい感触。上等。

 成瀬先生「よく描けている。君はあと3年間 することがないな。」

 

 プロの先生の言葉の魔力 それ以後 上達せず。 

 

 美術部では、1年生は絵の具作り。北側の準備室、大理石の厚板に粉の絵の具を置き、油をたらし、大理石の小石で練ってペースト状に。その当時はやっていたクリープ(粉ミルク)の瓶につめて、先輩たちのいる南側の美術教室に持って行く。美術部の1年生は私だけではなかったのですが、男子2人(北野君と私)、女子多数。絵具作り作業は男子が主にやっていました。作業のまわりに女子数人がとりまいて見ていた。当時の岡崎高校では女子はあまりいなかった。外から、北側の窓から、作業の様子は見える。窓の外には女子生徒を見に多数の男子生徒が集まる。クラスで「いいねえ」と言われたかな。

 

 

 キャンバスも木枠から、古い布を張り、白いペンキを塗って自分たちで作っていた。みんな30号、50号の大きなキャンバスに描いていた。絵具もふんだんに使って厚塗り。

 県の高校生の展覧会があり、栄の県美術館へ。名古屋市内の高校の作品の小さいことと、絵具の色の鮮やかさが印象的でした。我々の絵は大画面なれど暗い色調。自分たちで作る絵具は売っているのより暗い色だった。

 土色の絵具をよく作っていたでしょうか。先輩たちは風景画が多かったかな。先輩たち、確かなデッサン力。私は、筆は使わず、ペインティングナイフのみ、超厚塗り。色は絶対混ぜない。鮮明、純色。

 成績が なぜか どんどん下がっていきました。

「美術部 やめます」1年生の秋だったか・・

 成瀬先生「君は美の世界を去るのですか?

 

 そして それから50年 美術の世界には無縁に過ごす。 

 定年退職後7年 名古屋大学から次年度の講師依頼が いつもの時期に来なかったので、非常勤の務めも終わったと思い、「自由を得た!」・・・何をしましょう? カルチャー教室で案内を見て・・

(ところがしばらくして「来年度のシラバスを提出せよ」だって! 去年は依頼も受けずに実働)

 日本画教室に通うことに。67歳の手習い。

 

 とにかく ふかふかの黒いズボンで 美の世界へ。

 

 

 

 

作品 2 天女  第五回 小石の会 出品

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 題名 (案) 風早 朝霞 春風 雲の浮波 風に和す 天の羽袖 雲の通い路 

羽袖たなびく 舞の袖 風にたなびく 雲路 

 謡曲 羽衣を聴きつつ これらの案をつくり先生にお見せしました。題はおおいにほめていただきました。 かえって絵のへたさを自覚。シンプルに 天女 としました。 

 

作品 5 大須観音 (制作中)

 
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大須生まれです。

榎町14番地。今の大須一丁目。大須小学校から50メートル北。

幼稚園まだのころ、大須観音の境内で遊んでいました。同い年の慎ちゃんのお母さんが境内でテントの焼きそば屋をやっていた。境内の広場にはテントの鉄板焼きそば屋、お好み焼き屋さんがたくさん並んでいました。今で言うと、パレスチナの難民キャンプ風の光景。ほこりっぽい。疲れた、しかしエネルギッシュな人々が大須観音の境内で楽しく焼きそばを食べていた。そんな絵にしたい。歴史画。ただ、テントの形がわからないし、そのころは今のお堂はなかったと記憶。宝生座という芝居小屋があった。

 慎ちゃんのお母さんは太っていて こんな感じ。

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左が しんちゃん

 

資料収集中

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素直な表情の子供がいて

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ひろっぱ の感覚の場で

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雑踏・・

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賑わい

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しんちゃん と お母さん の感じが伝わるように

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食べる表情も 今とは異なり

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人の流れ 大須でのくつろぎ

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仕事の姿 どこからも見えて

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評判の小町娘もいて

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大須のあの頃

30号のパネルは 白紙状態

大須の絵を描き上げなさい という期待の声 複数、 されど

当時の 日常の和服  終戦後の人々の疲れれはいるけどエネルギッシュな表情 それが大須で飲み食いしながらくつろいでいる風情 

しんちゃんのおかあさんのテントの焼きそば屋さん

テントの張り方 椅子がどんなだったか わからないのです。